今日の東京新聞

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裁量労働制 デ―夕の異常値次々

裁量労働制 デ―夕の異常値次々/2面

 裁量労働制を巡る不適切なデータ問題を巡り、厚生労働省調査のデータから次々と見つかった労働時間の異常な数値は、 一般労働者の労働時間を長く、裁量労働制で働く人を短く見せる傾向がはっきりしている。この数値が含まれていたために、安倍晋三首相が撤回した「裁量労働制の労働時間が一般労働者より短いデータもある」との国会答弁にもつながった可能性が高い。(木谷孝洋)=1面参照

 厚労省は2013年度労働時間等総合実態調査のデータを基に、1日の労働時間を一般労働者は9時間37分、裁量労働制で働く人は9時間16分と算出し、裁量労働制が21分短いとしていた。だが、一般労働者の労働時間は1カ月のうち「残業時間が最も長い1日」の数値と判明。不適切なデータ比較だったとして、首相が国会答弁を撤回した。
 その後、厚労省の精査や野党の指摘で調査データの不備が次々と発覚。21日には一般労働者の残業時間が「45時間」などの異常値が、少なくとも117件、22日には裁量労働制の1日の労働時間が「4時間以下」としたものが120件出てきた。
 厚労省はこうしたデータが労働時間の平均を計算する際に使われたことを認めている。異常値がなければ、一般労働者の平均労働時間は当初の9時間37分より短く、裁量労働制は9時間16分より長くなるため、「裁量労働制の方が短い」という結論が覆っていた可能性が出てくる。
 希望の党山井和則氏は23日の衆院予算委員会分科会で「(異常値の)データを混ぜて計算しているとなれば、裁量労働制の平均時間は間違って短く出されたということになる。大問題だ」と批判した。

金子兜太さん死去 98歳 戦後俳壇けん引

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金子兜太さん死去 98歳 戦後俳壇けん引/1面

「平和の俳句」選者
 現代俳句の第一人者で、本紙「平和の俳句」選者の金子兜太(かねことうた)さんが20日午後11時47分、誤嚥(ごえん)性肺炎による急性呼吸促迫症候群のために死去した。98歳。埼玉県皆野(みなの)町出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長男真土(まつち)さん。別途、お別れの会を開く。=語録7面、いとうせいこうさん寄稿31面、社説5面
 <本文、略>

評伝/戦争体験原点 平和への執念
 「俺は150まで生きるんだ」。ついこの前まで目の前で豪語していた金子兜太さんが、98歳で逝った。俳句への情熱と平和への執念、二つの強烈な思いに貫かれた人生だった。
 俳句の原点は、故郷・秩父(埼玉県)にある。秩父音頭を今の形に整えた父伊昔紅(いせきこう)さんは医師で、水原秋桜子(しゅうおうし)と親交の深い俳人。句会で家に集う粗野な若者たちの、むき出しの「知的野生」に触れた原体験は、俳句の道へとつながった。
 旧制水戸高校で俳句を始め、東京帝国大(現東大)時代に加藤楸邨(しゅうそん)に師事。戦後「社会性俳句」「前衛俳句」の旗手となり「五七五の十七音と季語」という俳句の常識を「拘束に転化している」と批判し「(季語ではない)ドラム缶も俳句になる」と主張した。「荒凡夫(あらぼんぷ)」小林一茶が理想で、花鳥諷詠(かちょうふうえい)を超える人間くさい句を詠んだ。晩年はより自然体の作風になり、自然や鳥獣と交歓するアニミズムの境地を深めた。
 もうひとつ人生に大きな影響を与えたのは戦争体験だった。海軍主計中尉として昭和19(1944)年、西太平洋トラック島(現チューク諸島)に赴任。部下が飢えや爆撃で死んでいくさまを目の当たりにし、戦場の真実を胸に刻んだ。
 「自分の俳句が、平和のために、より良き明日のためにあることを願う」
 55年に36歳で出した最初の句集「少年」のあとがきで、金子さんはこう書いている。平和への思いは筋金入りだった。
 いとうせいこうさんとともに本紙「平和の俳句」の創設を提案し、自ら選者を務めたのも、平和への思いからだ。「詩の言葉の中に『平和」もある。これは俳句にとっては一つの黎明(れいめい)になるんじゃないか」「常識を超えないと面白くない」と、力強く話していた。
 「きれいごとを言っている人間は信用しないんだ」と言って、常に庶民の側に立った「存在者」。95歳を超えて論争し、フランス料理のフルコースを完食した強靱(きょうじん)な個性は、晩年まで輝き続けた。(加古陽治)

 

金子兜太さん語録/7面

 デパートの屋上から飛び降りるんだよ。それくらいのことをしなきゃ俳句をやってる意味がないぞ。(1969年、坪内稔典さんに)

 俳句は魔女だ。(『わが戦後俳句史』。1985年)

 存在感というのは(略)「命の気合」のようなところで感じないと、本当には感じられませんね。理屈でいくら割り切っていてもだめなんです。(いとうせいこうさんとの共著『他流試合』。2001年)

 戦争に行って、目の前で手がふっ飛んだり背中に穴が開いて死んでいく連中を見たり、いかついやつがだんだん痩せ細って仏様みたいに死んでいくのを見て、いかなる時代でもリベラルな人間でありたいと考えていた自分がいかに甘いかということを痛感した。自己反省、自己痛打が私にそういう句を作らせたと同時に、その後の生き方を支配した。(本紙のいとうせいこうさんとの対談で。2014年8月15日朝刊)

 俳句は季語がなければならないなんてことないですよ。(略)詩の言葉の中に「平和」もある。(いとうせいこうさんとの「平和の俳句」選者対談で。2015年6月26日朝刊)

 必ず時代には棄(す)てられる人がいる。詩人はそれを見てなきゃダメだ。それが見ていられないような詩人は詩人じゃない。(宇多喜代子さんとの特別対談「平和への願いと俳句」。『俳句』2015年8月号)

 私は右でも左でも、個々人の思想は大事にするべきだと思っています。でも、大きな権力に便乗して自分の鬱憤(うっぷん)を晴らそうとする人たちは許せない。(『あの夏、兵士だった私』。2016年)

 幸福が欲しかったら、日本人は理屈を捨てて、もっともっとスケベになったらいい。(同)

 戦争でたくさんの存在者がみじめに死んでいった、あれに報いたい。だから、反戦のことを繰り返して説きまくっていきたい。俳句もそういうものを作りたい。それは絶対基本です。(大峯あきらさんとの特別対談「『存在者』をめぐって」。『俳句』2016年7月号)

 お茶は飲め飲め、飲むならば。俺はお茶で長生きしてるんですよ。お茶を濁してね。(「平和の俳句」選考会で。2016年8月9日)

 短詩型文学は愚直さがつくるものである。これが基本である。同時に天才がつくるものである。中間的な連中にはろくなものはできない。(「十五年ぶりの他流試合」。2017年)


金子兜太さんが書いた「アベ政治を許さない」のメッセージを掲げる沢地久枝さんら=2015年7月8日、東京都千代田区

 

明治150年「薩長史観」を超えて 2

明治150年「薩長史観」を超えて 2 半藤一利さん×保阪正康さん/7面

軍事主導
 ー明治から、大正、昭和にいたる歴史の連続性をどう考えますか?
 保阪正康さん 日露戦争の本当の部分が隠蔽されてきました。昭和史を追いかけるとそこに行き着きます。明治を高く評価する人は、日本人には良質な精神があると言いたいのだと思うが疑間です。日本には選択肢がいくつもあった。皇后さまが言及した「五日市憲法」〈注1〉のように、日本各地で自主的な憲法案が80いくつもつくられた。しかし、選んだのは軍事主導体制で帝国主義的な道でした。
 司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」で書いているのは、国家の利益に庶民がどう駆り出され、尽くしたのか、という物語です。明治100年の首相は佐藤栄作氏。安倍晋三首相の大叔父です。明治150年は安倍首相です。ともに山口県(長州)選出。今から100年後の歴史家には、150年たっても薩長政府が影響力を持っていたと書かれますよ。隠された史料や視点を拾い上げ、もう一度史実の検証をするべきだと思うんです。

薩長が権力闘争
 半藤一利さん 結局、明治政府ができてから西南戦争までの間は、天下を長州が取るか、薩摩が取るかという権力闘争でした。江戸幕府を倒したが、どういう国家をつくろうという設計図が全くなかった。薩摩も長州もね。
 保阪 日清戦争で国家予算の1.5倍の賠償を取り、軍人は戦争に勝って賠償を取るのに味をしめました。日露戦争でも南樺太など、いくつかの権益は得ました。第1次世界大戦でも。日中戦争初期の停戦工作が不調に終わったのも、要は政府が賠償金のつり上げをやったからです。
 ―明治政府は、国民統合のために天皇を持ち出しました。国家の基軸に天皇を置いて立憲君主国家をつくりました。
 保阪 明治150年を起承転結で考えると、 一番分かりやすいのが、明治天皇が「起」、大正天皇が「承」、昭和天皇が「転」、今の天皇陛下が「結」。昭和を語るキーワードの「天皇」「戦争」「国民」は、みな二面性を持っています。天皇は戦前は神格化された存在で、戦後は象徴であり人間天皇。国民は臣民から市民、戦争は軍事から非軍事です。

皇統を守る手段
 あえて言えば、天皇というのはどの時代も皇統を守ることを目的としています。目的があれば手段があり、例えば今は宮中で祈る、国事行為を一生懸命するということですが、戦前は戦争も手段だったんですね。昭和16年4月から11月までの日米交渉の記録を読んでください。御前会議、大本営政府連絡会議〈注2〉、閣議、重臣会議などの記録を丹念に読むと、軍部は天皇に対して「戦争をやらなきゃだめだよ。この国はつぶれるよ。皇統は守れないよ」と強圧的に昭和天皇を脅していることに気付きますね。それで昭和天皇は「戦争しかないのか」と手段として戦争を選んだんです。3年8カ月の大平洋戦争の間をひと言で言えば「悔恨」でしょう。皇統を守る手段として昭和天皇は戦争を選んだ。今の天皇はこの苦しみを深く理解しているはずです。

<注1>五日市市民憲法 明治初期に、国会開設を求める運動の中で全国各地で起草された民間憲法私案の一つ。東京・多摩地方の五日市町(現あきる野市)で1881年明治14年)に起草された。基本的人権が詳細に記されているのが特徴。自由権、平等権、教育権などのほか、地方自治政治犯の死刑禁止を規定。1968年、色川大吉東京経済大教授(当時)のグループが旧家の土蔵から発見した。

<注2>大本営政府連絡会議 戦時に陸海軍を一元的に統帥するため、大本営と政府代表の間で設置された連絡調整機関。日中・太平洋戦争では、1937年に設置された。44年7月には小磯国昭内閣が成立した後は最高戦争指導会議に改組された。

日露戦争 正しい戦史を伝えなかった軍部

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明治150年「薩長史観」を超えて 半藤一利さん×保阪正康さん/1面から続く

日露戦争 正しい戦史を伝えなかった軍部/7面
 ―「明るい明治、暗い昭和」という歴史観を持つ人が多い気がします。日露戦争を描いた司馬遼太郎〈注1〉さんの「坂の上の雲」〈注2〉の影響もあるようです。生前の司馬さんと交流があった半藤さんはどう捉えていますか?
 半藤 日露戦争後、陸軍も海軍も正しい戦史をつくりました。しかし、公表したのは、日本人がいかに一生懸命戦ったか、世界の強国である帝政ロシアをいかに倒したか、という「物語」「神話」としての戦史でした。海軍大学校陸軍大学校の生徒にすら、本当のことを教えていなかったんです。
 海軍の正しい戦史は全百冊。3部つくられ、2部は海軍に残し、 1部が皇室に献上されました。海軍はその2部を太平洋戦争の敗戦時に焼却しちゃったんですね。司馬さんが「坂の上の雲」を書いた当時は、物語の海戦史しかなく、司馬さんはそれを資料として使うしかなかった。

小説と全然違う
 ところが、昭和天皇が亡くなる直前、皇室に献上されていた正しい戦史は国民に見てもらった方がいいと、宮内庁から防衛庁(現防衛省)に下賜されたんです。私はすぐ飛んでいって見せてもらいました。全然違うことが書いてある。日本海海戦東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を迎え撃つときに右手を挙げたとか、微動だにしなかったとか、秋山真之の作戦通りにバルチック艦隊が来たというのは大うそでした。あやうく大失敗するところだった。
 陸軍も同じです。二百三高地の作戦がいかにひどかったかを隠し、乃木希典と参課長を持ち上げるために白兵戦と突撃戦法でついに落とした、という美化した記録を残しました。日露戦争は国民を徴兵し、重税を課し、これ以上戦えないという厳しい状況下で、米国のルーズベルト大統領の仲介で、なんとか講和に結び付けたのが実情でした。
 それなのに「大勝利」「大勝利」と大宣伝してしまった。日露戦争後、軍人や官僚は論功行賞で勲章や爵位をもらいました。陸軍62人、海軍38人、官僚30数人です。こんな論功行賞をやっておきながら国民には真実を伝えず、リアリズムに欠ける国家にしてしまったんですね。

爵位を得るため
 保阪 昭和50年代に日米開戦時の首相だった東条英機〈注3〉のことを調ベました。昭和天皇の側近だった木戸幸一〈注4〉がまだ生きていて、取材を申し込みました。なぜ、東条や陸海軍の軍事指導者はあんなに戦争を一生懸命やったのか、と書面で質問しました。その答えの中に「彼らは華族になりたかった」とありました。満州事変〈注5〉の際の関東軍司令官の本庄繁は男爵になっています。東条たちは、あの戦争に勝つことで爵位〈注6〉が欲しかった。それが木戸の見方でした。
 当たっているなあと思いますね。何万、何十万人が死のうが、天皇の名でやるので自分は逃げられる。明治のうその戦史から始まったいいかげんな軍事システムは、昭和の時代に拡大解釈され肥大化したのです。
<注・略>

はんどう・かずとし 1930年、東京都出身。東京大卒。「文芸春秋」編集長などをへて作家に。「日本のいちばん長い日」「幕末史」「ノモンハンの夏」など近現代史関連の著書多数。

ほさか・まさやす 1939生、札幌市生まれ。同志社大卒。出版社勤務をへて、昭和史を中心とする著述活動に入る。「昭和陸軍の研究」「昭和史七つの謎」など。

藤井6段 新時代の予感 先輩脱帽 異次元の強さ

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藤井 新時代の予感 先輩脱帽 異次元の強さ/28面

 最後まで落ち着き払っていた。広瀬章人(あきひと)8段(31)が投了を告げ、歓声と拍手で会場が騒然とする中、最年少優勝を決めた15歳は険しい表情のまま、ひたすら盤上を見つめ続けていた。=1面参照

初V 最年少6段
 東京・有楽町のホール。決勝は先手の藤井聡太6段(15)が得意の「角換わり」の戦型に進んだ。「積極的にという方針が奏功した」と振り返るように、序盤から攻めて主導権を握った。
 途中で攻めが途切れそうになる懸念もあったが、終盤、 一見ただで取られそうな地点に桂馬を打つ妙手を放ち、現地で解説していた佐藤天彦名人(30)をうならせた。広瀬8段も「難しい将棋かと思っていたが、こんな素晴らしい手があるのを見落としていた」と脱帽する決め手となった。
 序盤には、対局者の持ち時間を表示する機器に異常が発生。広瀬8段が関係者を呼びに席を立つ間も藤井6段は顔色を変えず、何事もなかったかのように次の手を指した。対局に影響はなかったが、アクシデントにも動じない集中力を示した。プロになって1年余で成長ぶりを見せつけた。
 ◇
 準決勝でも、絶対王者の羽生(はぶ)善治2冠(47)を相手に異次元の強さを見せた。対局前、厳しい表情で盤をにらむ羽生2冠に対し、先手の藤井6段はいつも通り淡々とした表情。
 中盤は、プロの間で最近流行している「雁木(がんぎ)」の戦型となった。次々意表の手が飛び出す展開に、山口恵梨子女流2段(26)は「天才同士が戦うとこうなるのか」とため息をついた。
 藤井6段の強気の攻めで少しずつ優勢を築くと、最後は持ち前の終盤力がさく裂した。羽生2冠は「藤井さんは冷静沈着だった。(非公式戦で対戦した)1年前に比べ、対応力も上がっていると感じた」。
 新たなヒーローの誕生を印象づけた鮮やかな勝利。羽生2冠は「新しい時代の感覚を取り入れなければいけないと痛感した一日だった」と振り返り、「藤井さんはもちろんタイトル戦の舞台に立つと思う。そこに私が立っていられるかが問題だ」と苦笑いした。(樋口薫、岡村淳司)

歴代の天才超えるスピード
 藤井6段の優勝は、最年少記録であるだけでなく、驚くべき偉業だ。
 まず、全棋士参加棋戦での優勝である点だ。歴代の年少優勝ベスト5をみると、藤井6段以外の4人は若手棋士のみ参加の棋戦だった。トップ棋士がひしめく全棋士参加棋戦では、これまで羽生善治2冠が4段時代の1987年に達成した17歳2カ月が最年少。今回、中学生が全棋士中のトップに立ったことの衝撃は大きい。
 6段昇段までのスピードも驚異的だ。過去の中学生棋士の中でも、最年少昇段記録を持っていた加藤一二三・9段が16歳3カ月。谷川浩司9段(55)は17歳11カ月で、羽生2冠でも19歳ゼロカ月だった。歴代の天才の中でも飛び抜けた早熟ぶりだ。
 強運も持ち合わせている。藤井6段は今月1日に順位戦で「C級1組」への昇級を決めて5段に昇段し、その後に全棋士参加棋戦で優勝して6段に昇段したが、もしこの順番が逆だった場合、規定により5段のままだった。
 今回の名人、竜王を連覇しての朝日杯優勝は、 1989年2月、当時18歳の羽生2冠が4人の名人経験者を破り、NHK杯を制した際の躍進ぶりをほうふつとさせる。この優勝で羽生2冠の名声は高まり、同年末には初タイトルを獲得した。将棋史に残る今回の快挙を、藤井6段がさらなる高みにつなげられるか、注目される。 (樋口薫)

 

本音のコラム「まやかしの政治」 山口二郎

本音のコラム「まやかしの政治」 山口二郎/27面

 平昌オリンピックで最も恩恵を受けているのは、安倍晋三首相だろう。日本勢の活躍もあって、テレビのニュースはオリンピック関連の情報に大きな時間を割いている。そうなると、政治の動きに関するニュースはどうしても手薄になる。
 オリンピックの陰で、日本の国会ではとんでもないことが次々と起こっている。政府は「働き方改革」の柱として裁量労働制の拡大を内容とする法改正を準備している。
 それを正当化するための根拠として、裁量労働制の下で働く人の方が、始業・終業時間を定めた働き方をする人よりも労働時間が短いと安倍首相が述べた。
 研究者が不審に思い、野党が国会で迫及した結果、そのようなデータは存在しないことが明らかとなり、首相は答弁の撤回に追い込まれた。
 オリンピックがなければこれは新聞各紙1面に載る大ニュースである。この通常国会の最大目玉法案について、首相が架空の数字を使って売り込みを図ったのである。
 朝日新聞の捏造(ねつぞう)体質はけしからんと国会審議で攻撃を加えた安倍首相は、自分自身の捏造についてどう責任を取るのだろうか。答弁資料を用意した役人が悪いと言い逃れをするのかもしれないが、捏造に踊らされた政治指導者は、悪意はなくても、愚かである。働き方改革については、一度出直すべきである。(やまぐち・じろう/法政大教授)

社説「問題を先送りするだけだ」日銀総裁再任案

社説「問題を先送りするだけだ」日銀総裁再任案/5面

 政府が黒田東彦(はるひこ)・日銀総裁の再任人事案を決めたのは今後も異次元緩和を継続させることを意味する。劇薬あるいは鎮痛剤への依存症といっていい。将来リスクに目をつぶる政権にこそ問題がある。

 「2年で2%の物価上昇目標」が、5年たっても一向に達成が見通せないのだから再任には疑問符が付く。しかし安倍晋三首相にためらいは感じられない。なぜか。
 日銀の異次元緩和はさまざまな副作用を伴う。だが首相は株式市場の機能がマヒしようが、日銀の財務状況が悪化しようが、国の借金が増え続けようが、お構いなしのようである。
 ただ自分の任期の間だけ、今この時だけ経済状況が保ち、自らの信念である憲法改正といった目標さえ成し遂げられれば、それでよしとでも考えているのだろうか。
 日銀総裁に対して金融緩和をやめよといっても、やめられるわけではない。日銀は政府と政策連携協定を結び、それに縛られて2%の物価上昇目標に取り組んでいるからだ。緩和の手法については独立性はあるが、政府方針と異なる政策は採り得ないのである。
 リーマン・ショックからおよそ10年たち、欧米の中央銀行は危機対応の緩和路線から脱し、平常時の政策に動いている。ひとり日銀が置いていかれている。ここで経済危機が訪れると、日銀には政策の余地がほとんどない状況だ。
 振り返れば、黒田総裁は2013年3月の就任直後に世界を驚かせた異次元緩和で円安・株高を演出、企業業績を改善させた。「デフレは貨幣現象」というリフレ派理論に基づき、大量の国債購入で資金供給する量的緩和だった。
 だが、物価上昇目標は達成できず、その後は失速。追加緩和(14年10月)、マイナス金利導入(16年1月)、追加緩和(同年7月)、そして量的緩和から金利操作に軸足を移す長短金利操作(同年9月)に転換した。達成時期の延期は6回を数えている。
 むしろ弊害ばかりが目立っている。「国債を発行しても日銀が買い支えるから大丈夫」と財政規律を喪失させた。上場投資信託ETF)の大量買い入れで株価の価格形成が歪(ゆが)み、企業経営の実態も見えにくくなった。
 要するに、人為的に金利や市場価格を操作しすぎた結果、止めた場合のリスクが膨らみすぎ、やめるにやめられないのではないか。
 政府は景気回復を喧伝(けんでん)している以上、今回の任期切れを機に緩和政策を修正するのが筋である。

 

<ブログコメント>昨年、出版され、話題を集めている本を1冊紹介します。明石順平著『アベノミクスによろしく』インターナショナル新書(740円+税)。以下は扉の紹介文です。

 アベノミクス以降の実質GDPは、民主党政権時代の3分の1しか伸びていなかった! しかも、2014年度の国内実質消費は、戦後最大の下落率を記録。さらにGDPの数値も、算定基準改定のどさくさに紛れて異常なかさ上げが行われていた。
 アベノミクスが大失敗しているという事実を、多くの人は知らない。日本にとって最大のリスクであるアベノミクスの「中身」と「結果」を、政府や国際機関による公式発表データを駆使して徹底検証する。

 f:id:a-tabikarasu:20180217132634j:plain 明石順平著『アベノミクスによろしく』