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明治150年「薩長史観」を超えて 2

明治150年「薩長史観」を超えて 2 半藤一利さん×保阪正康さん/7面

軍事主導
 ー明治から、大正、昭和にいたる歴史の連続性をどう考えますか?
 保阪正康さん 日露戦争の本当の部分が隠蔽されてきました。昭和史を追いかけるとそこに行き着きます。明治を高く評価する人は、日本人には良質な精神があると言いたいのだと思うが疑間です。日本には選択肢がいくつもあった。皇后さまが言及した「五日市憲法」〈注1〉のように、日本各地で自主的な憲法案が80いくつもつくられた。しかし、選んだのは軍事主導体制で帝国主義的な道でした。
 司馬遼太郎さんが「坂の上の雲」で書いているのは、国家の利益に庶民がどう駆り出され、尽くしたのか、という物語です。明治100年の首相は佐藤栄作氏。安倍晋三首相の大叔父です。明治150年は安倍首相です。ともに山口県(長州)選出。今から100年後の歴史家には、150年たっても薩長政府が影響力を持っていたと書かれますよ。隠された史料や視点を拾い上げ、もう一度史実の検証をするべきだと思うんです。

薩長が権力闘争
 半藤一利さん 結局、明治政府ができてから西南戦争までの間は、天下を長州が取るか、薩摩が取るかという権力闘争でした。江戸幕府を倒したが、どういう国家をつくろうという設計図が全くなかった。薩摩も長州もね。
 保阪 日清戦争で国家予算の1.5倍の賠償を取り、軍人は戦争に勝って賠償を取るのに味をしめました。日露戦争でも南樺太など、いくつかの権益は得ました。第1次世界大戦でも。日中戦争初期の停戦工作が不調に終わったのも、要は政府が賠償金のつり上げをやったからです。
 ―明治政府は、国民統合のために天皇を持ち出しました。国家の基軸に天皇を置いて立憲君主国家をつくりました。
 保阪 明治150年を起承転結で考えると、 一番分かりやすいのが、明治天皇が「起」、大正天皇が「承」、昭和天皇が「転」、今の天皇陛下が「結」。昭和を語るキーワードの「天皇」「戦争」「国民」は、みな二面性を持っています。天皇は戦前は神格化された存在で、戦後は象徴であり人間天皇。国民は臣民から市民、戦争は軍事から非軍事です。

皇統を守る手段
 あえて言えば、天皇というのはどの時代も皇統を守ることを目的としています。目的があれば手段があり、例えば今は宮中で祈る、国事行為を一生懸命するということですが、戦前は戦争も手段だったんですね。昭和16年4月から11月までの日米交渉の記録を読んでください。御前会議、大本営政府連絡会議〈注2〉、閣議、重臣会議などの記録を丹念に読むと、軍部は天皇に対して「戦争をやらなきゃだめだよ。この国はつぶれるよ。皇統は守れないよ」と強圧的に昭和天皇を脅していることに気付きますね。それで昭和天皇は「戦争しかないのか」と手段として戦争を選んだんです。3年8カ月の大平洋戦争の間をひと言で言えば「悔恨」でしょう。皇統を守る手段として昭和天皇は戦争を選んだ。今の天皇はこの苦しみを深く理解しているはずです。

<注1>五日市市民憲法 明治初期に、国会開設を求める運動の中で全国各地で起草された民間憲法私案の一つ。東京・多摩地方の五日市町(現あきる野市)で1881年明治14年)に起草された。基本的人権が詳細に記されているのが特徴。自由権、平等権、教育権などのほか、地方自治政治犯の死刑禁止を規定。1968年、色川大吉東京経済大教授(当時)のグループが旧家の土蔵から発見した。

<注2>大本営政府連絡会議 戦時に陸海軍を一元的に統帥するため、大本営と政府代表の間で設置された連絡調整機関。日中・太平洋戦争では、1937年に設置された。44年7月には小磯国昭内閣が成立した後は最高戦争指導会議に改組された。