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「異論に寛容であれ」 元号使用の強制性

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視点・見張り塔から 「異論に寛容であれ」  元号使用の強制性 山田健太さん/4面

 「どちらでもよい」をどう表現するかは、なかなか難しい。日本では年号表記に西暦と和暦(元号)が存在し、一般社会生活においては自由な選択が認められている。一方で、役所は便宜的慣行的に元号の使用を優先し、そこで働く公務員には学校現場の教員も含めて使用を義務化してきた。同時に私たち市民も、公的機関への届け出等に際し、行政の統一的な事務処理上、元号使用を強く要請されている。その結果、社会全体に元号が「原則使用(デファクト)」となり続ける素地が固まっていくわけだ。
 元号法ができた当時、政府は公的機関における元号の使用について、「強力を求める」ことはあっても「強制するとか拘束する」ものではないと繰り返し答弁していた。それもあって元号法は「1元号は、政令で定める。2元号は、皇位の継承があった場合に限り改める」と、使用に関する定めが一切ないシンプルなものだ。今回も、政令第143号「元号を改める政令」によって、「元号は令和に改める」「皇室典範特例法の施行の日の翌日から施行する」との通知が、政府から関係各所に送られるにとどまる。
 しかし、受け取った側が「わざわざ」和暦を選択しないことは大変だ。1980年代には、西暦を教育現場で使用したことを理由とした校長の処分が行われ、事実上の強制使用の流れは一層強まったとされている。これは、ちょうど日の丸・君が代の強制使用と似ていよう。国旗国歌法の制定は99年で、その際にも政府は繰り返し押し付けるものではないといいつつ、教師は斉唱する職務命令に従う義務があるとした。報道の現場でも、官公庁の記者会見場における国旗の掲揚と一礼が慣習化している。
 実際、今日に至るまで公立学校教員の厳しい処分が続いており、東京都だけでも2019年現在で500人近い停職処分や減給等の服務違反に問われたとされる。司法も職務命令を合憲としたうえで、戒告は裁量の範囲内と処分を容認している。こうした教育現場と公的機関に元号使用を事実上強制することは、いっそうの「忖度(そんたく)」を生むとともに、西暦と自由に使い分けしてよいとの政府見解を無力化するばかりか、西暦使用を求める者に対し「非国民」とか「不敬」呼ばわりする社会を作ってきたわけだ。
 本来は、そうした強制性を戒める責任が政府にはある。にもかかわらず、一時は政府内でも官公庁の表記を原則元号から西暦に変更する動きがあるやに報じられたものの、外務省が西暦表記を部分的に導入しようとしただけでも、官邸からストップがかかるというありさまだ。元号を使わないことに対し、異論をはさむのに勇気が必要な社会は、思想・良心の自由が保障された社会とは相いれない。
 一方で誰もが気兼ねなく元号を使用できるためには、思想性を持ち込まないことも大切だろう。それゆえ、国民の「総意」は、政府が無理矢理作り出すものではないにもかかわらず、元号を国家の「精神的一体感」を支えるものとして位置づけることには危うさが伴う。それはまた、法制定当時に政府自身が、元号を「天皇そのものと結びつけることには注意したい」と繰り返し答弁したこととも齟齬(そご)が生じるのではないだろうか。 
(やまだ・けんた/専修大教授)

 

発言/神話と歴史は区別すべきだ 無職・吉野典子(62)東京都/5面

 天皇代替わりに関する最近の議論を聞いていて気になることがある。神武天皇から数えて何代目に当たるかを、ことさらに語ろうとする人々がいる点だ。
 宮内庁のHPにも神武以来の歴代天皇陵が載っているが、考古学や歴史学の立場から大いなる疑問があることはいうまでもない。専門家でなくても、縄文から弥生の時代に100歳を超える天皇が在位していたと本気で信じたりはしないだろう。
 天皇や皇族が祖先として私的に尊崇することはあっても、メディアや国会議員をはじめとする公務員は、神話と歴史をはっきり区別すべきだ。事実でないと知りながら事実であるかのように取り上げ、横並びから外れるのを恐れて大勢に従うのでは、国民を集団催眠にかけた戦争の時代への反省がなさすぎる。