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歴史から見る天皇制 「時代で姿を変えつつ」

f:id:a-tabikarasu:20190428082528j:plain 2019.4.27/4面

考える広場/歴史から見る天皇制  「時代で姿を変えつつ」  山口輝臣・東大准教授/4面

 天皇陛下の退位で「平成」は4月30日に幕を閉じ、翌5月1日には新天皇の即位で「令和」が始まります。現代は象徴天皇制の時代ですが、明治・大正・昭和前期の天皇は、いわば神格化された国家元首で、陸海軍の大元帥でもありました。山口輝臣・東京大学大学院総合文化研究科准教授と江戸時代の天皇の姿から歴史を振り返ります。 (聞き手・桐山桂一論説委員

 桐山 まず江戸時代の一般の庶民たちは、天皇の存在について、どう知っていたのですか。武家政権下では天皇はどんな役目を負っていたのでしょう。
 山口 江戸時代の人もほぼ天皇の存在は知っていました。ただ天皇ではなく、天子、天子様と呼んでいました。朝廷も禁中とか禁裏ですね。幕府は公儀という呼び方でした。天皇の役目のうちとりわけ大事なのが、征夷大将軍を任ずることです。公家の官位の叙任などもあります。「禁中並公家諸法度」にあるように、学問と和歌に励んでいた存在でもありました。
 桐山 意外ですが、天皇の代替わりで大嘗祭(だいじょうさい)は長く行われていなかったそうですね。
 山口 代替わりでは、即位の礼大嘗祭などさまざまな行事が行われます。ところが、大嘗祭応仁の乱(1467ー77年)のころから途絶えてしまい、江戸時代の貞享4(1687)年の東山天皇の即位で、221年ぶりに再興されました。一世一度の最大の祭りといわれ、これを経て真の天皇になるとも言われる大嘗祭ですが、執り行うにはそれなりの費用が必要でそれが長年、捻出できなかったのが途絶えた原因でしょう。江戸時代に復活したのは、幕府の支援によるものです。
 天皇の祭儀は神事ばかりでなく、仏教色のものもあります。密教儀礼も…。そして、天皇の葬礼と埋葬は寺院が行いました。供養も仏式です。次第に京都の泉涌寺(せんにゅうじ)に墓所が定められていきます。

 桐山 でも、明治では仏教色は極度に弱められます。どんな事情があったのでしょうか。
 山口 国学の影響が一つあります。「古事記」にあるような「古(いにしえ)」が理想的であり、その後、中国から「古」を汚す儒教や仏教が流入したと考えるわけです。もう一つが水戸学です。「大日本史」の編纂(へんさん)にあたり、天皇の血統、つまり皇統が途切れていないことこそ、日本固有の「国体」であり、特別の価値を持つと考えるようになります。
 それらの影響を受けた明治維新のなかで、神仏の世界にいた天皇にも、神仏分離がなされた。京都から東京へと遷都されたことも、仏教の世界から逃れやすくなったと思われます。密教との関係では、明治天皇は数え16歳で即位しました。即位の礼京都御所で行われましたが、このとき「即位灌頂(かんじょう)」という密教儀礼が廃止されました。このことは明治天皇大日如来と一体化することなく即位したともいえます。これは少なくとも500年ぶりの出来事でした。
 桐山 幕末に日米修好通商条約を調印した際、幕府は天皇に勅許を求めました。条約締結に不可欠な手続きでしたか。
 山口 不可欠ではなかったのですが、おそらく天皇の勅許があればなおよい、それによって条約調印への支持が盤石になると幕府は考えたのでしょう。しかし、天皇は拒否しました。その結果、武家政権天皇の力関係を変える結果をもたらしてしまいました。

 桐山 さて、明治になり近代の天皇制が姿を現します。天皇による統治、さらに明治憲法では「天皇神聖にして侵すべからず」の条文もありました。天皇中心の国づくりが明確です。旧皇室典範で退位を認めなかったのはなぜでしょう。
 山口 明治憲法も旧皇室典範もその制定に力を振るったのは、伊藤博文です。退位については、江戸時代までは天皇にはいわば退位の自由がありました。しかし、退位によって上皇になり、別の権力を得ることで混乱を来すこともあるわけです。実際、明治に入ってからも、侍補(じほ)という天皇の周囲の人々が力を持ったこともあります。こうしたこともあって伊藤は天皇が勝手に退位できない仕組みにしたのです。
 <略>